执笔者プロフィール

南条 史生(なんじょう ふみお)
その他 : 森美術館特別顧問その他 : 美術評論家その他 : キュレーター塾员

南条 史生(なんじょう ふみお)
その他 : 森美術館特別顧問その他 : 美術評論家その他 : キュレーター塾员
昨年、「アートのお値段」(The Price of Everything)というアメリカ映画が公開された。この映画は「現代美術にはとんでもなく値段の高いものがあるが、誰がどうやって値付けしているのか」という素朴な疑問から出発したドキュメンタリーである。インタビューに応えるのは、現役のアーティスト、コレクター、オークショニア、ギャラリスト、美術評論家たちだ。
映画には、ジェフ?クーンズのように市场価格を重视する人から、ゲルハルト?リヒターのように无関心を装う作家、ラリー?プーンズのように市场価格には兴味がないと言いきる作家など色々と登场する。良い作品は高値であるべきと信じるオークショニアや、ギャラリストも登场する。アメリカのように商业的な国では、価格が作品の価値と直结しているように见える。またアジアのアート新兴国でも、市场価格が美术品の価値だと考える人は多い。
一方、ゴッホの例を见れば、彼の存命中には弟のテオ以外に彼の作品を认める人はいなかった。しかし今日、ゴッホの作品は最も高価な美术品の1つである。つまり、生前の市场価格はほぼゼロだったが、100年后にその価値が理解され、市场価格が本来の価値に追いついたとみることができる。
アートの価値の不思议さは「ダイアモンドは高いから価値がある」というギッフェンのダイアモンド?エフェクトの事例の典型にもなる。さらに、ブランディング?ビジネスの论理とその心理学とも関係があるだろう。
日本では、アートの価値が単纯に市场価値ではないという认识は、一般の人たちに意外と広く共有されているように思われる。それは、日本が长い歴史を持ち、茶道や浮世絵や多くの骨董品が身近にあり、なんとなく市场価格と作品の価値とは违うということを感じているからではないだろうか。
ところで昨年は、3年に1回开催される大型の国际展「あいちトリエンナーレ」が表现の自由をめぐって话题になった。これは、あるグループが「表现の不自由展?その后」と题して、过去に主催者などによって出品规制された作品を集めた展覧会を再现したものだ。一番问题になったのは、慰安妇の像と、天皇陛下の写真を焼く场面が含まれる映像作品であった。开幕直后から、こうした出品物を问题视する人々から胁迫电话などが相次ぎ、安全のためという理由で、开幕2日后に主催者(爱知県など)によってこのセクションが闭锁されたのである。その后、状况が落ちついたとみて、再开された。
この事件の居心地の悪さは、慰安妇问题のプロパガンダに使われた少女像を美术品として展示することに対する违和感から来ていたように思われる。これに一般的な国民感情が加わると、単纯に表现の自由を守ろうというスローガンに同调しがたい心境になる人が多かったのではないか。
だいたい、戦争などが起こると政府の主张を広めるためのプロパガンダアートが制作される。太平洋戦争时の日本でも多数の戦争画が残されたが、それは通常の美术作品と同等には扱えない。中国でも毛沢东の文化大革命期に多数のプロパガンダ絵画が制作された。あいちトリエンナーレに出品された慰安妇像もまた、隣国の政治的主张を表象するために作られた物で、これを美术作品として中立的に扱うには违和感がある(天皇陛下の写真を焼く作品は、富山県立近代美术馆における别の展覧会から発した长い背景があるので、ここでは论じない)。
山崎正和氏は、『読売新闻』2019年12月2日に発表した论考の中で、このグループは表现と主张を取り违えているのではないか、と论じている。つまるところ、表现、主张、作品の価値といった基準はそれぞれ意味が违うことを认识すべきではないか。しかし、では表现として守るべきものは何であると定义すればよいのか。
さて、表现の自由がある国とは、それがどんな作品であっても、平等に展示させる社会でなければならない。政府の方针とは异なる内容を持つ作品でも、政府が展示を妨げないことが、その定义となる。となると、ここで慰安妇の展示を规制してはならないということでもある。私は2019年には美术评论家连盟の会长であったので、この问题に対して抗议声明を発表した。
事を複雑にしたのは、その後、文化庁があいちトリエンナーレに対する補助金をキャンセルし、オーストリアで開催された日本の現代美術展「JAPAN UNLIMITED」について、在オーストリア日本大使館が公認を取り消したことである。このことによって、問題を愛知県のレベルから国の問題に格上げしてしまった。その結果、長年「表現の自由な国」というイメージのあった日本が「検閲する国」に変わってしまったのだ。
もちろん、日本を含めて完全に表現が自由な国などない。しかし今後、日本の国際展が外国の作家を招待した時に、彼らは、自分の作品が検閲される 可能性を危惧するようになる。そのダメージは大きい。
慰安妇像というプロパガンダ展示物が壊してしまったのは、「表现が自由な国 日本」というイメージだったのではないだろうか。
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。