执笔者プロフィール

十川 阳一(そがわ よういち)
文学部 日本史学専攻准教授
十川 阳一(そがわ よういち)
文学部 日本史学専攻准教授
「おおみたから」とは、古代の人々を表す「公民」にあてられる训である。その意味は「大御田族(おおみたから)」すなわち国家の田を耕作する人々、との説が有力である。日本の古代国家たる律令国家は、全ての人々を戸籍で管理し、
田(口分田(くぶんでん))を分かち与えた。その中には、実态として耕作に従事しない人々や农耕を主たる生业としない渔业者?手工业者なども含まれる。母法の唐令に存在した、手工业者への班田を通常の半额とする规定をあえて継受していないなど、日本令では人と田を结び付けて管理するという理念が强い。
口分田は6年に1度班给され、死亡した场合には次の班田时に収公される、いわゆる班田収授が律令制の原则であった。ただしここには、新たに开垦した田地の扱いが定められてないなどの问题があった。そうした中、天平15(743)年に、开垦した田は一切収公しないものとした垦田永年私财法(こんでんえいねんしざいほう)が制されることになる。この法は有力王族?豪族などの大土地所有を招き、律令国家崩壊のきっかけとなったと理解されることもあるが、古代史研究者の间では、私田の概念を明确にして国家的な管理下に置くことを定めた、律令国家による土地支配の深化?拡大であるという理解が一般的である。遗产相続について定めた戸令応分条では、701年に施行された大宝令段阶では田は相続の対象ではなかったが、757年の养老令では田も遗产相続の対象となる财产として规定された。このことも、私田の存在が明确になったことの反映といえよう。
さて王族?豪族は、律令制以前に私地を所有していたが、これらは律令制下においても国家から给付される封戸や位田といった形で存続している。すなわち理念とは异なり、実态としては必ずしも公地公民ではない面もあった。ただしこれら荘や庄と呼ばれる私有地の収穫物の徴収?纳入は、国司?郡司という律令国家の地方行政机构が担当する形式であった。私的な土地所有を国家が间接的に取り込むような形式を取っていたといえる。さらに天皇家の土地も、いわば私的な土地であった。天皇家の土地のうち、9世纪半ば顷には、皇族の日常的な経费を贿うために、勅旨田(ちょくしでん)や后院田(ごいんでん)などが全国各地に新たに设定された。公费を投入して、新规开垦や荒れた田の再开発を行うもので、各地の郡司たちの积极的な协力によってなされた。郡司たちは勅旨田の设定に协力する见返りに、高い地位を得て、地域内での権威を确立していたのである。
また本来の律令制では未开発地や用水権を含む山野の入会利用は公私共利とされ、独占的な私有を排除する空间も一定程度存在していた。灌漑施设等が破损した场合は、国司の管下で人々を动员して修缮する制度であったが、私财を蓄积した富豪层に、高い地位と引き换えに、私财を提供させて行う例が増加する。国家的な土地管理と共益とのバランスは难しい问题であるが、律令国家は地方の有力者たちの力も活用しながら、土地支配を维持していた。
なお重罪を犯した者の动产?不动产を没収する惯行が律令制以前から存在した。すなわち王族や豪族の私有地は、政治情势などによって収公されるリスクが伴うが、こうした事情による离散を防ぐため、氏寺への土地の施入も行われ、寺领の集积も进んでゆく。仏物となったものは原则として収公の対象とはならず安全であったためである。
ところで有力农民の中には、戸籍に登载されないまま、つまり税などを免れながら私富を蓄积する富豪浪人も现れるようになる。また9世纪から10世纪にかけて、それまで存続していた集落が突如消灭するという倾向が全国的に见出される。気候変动なども理由の1つとみられるが、これら社会の変化によって、戸籍とセットで行われていた従来の土地支配が困难になった。
もともと、口分田からの収穫には租(そ)という税が课されていた。上质の水田でも収穫物の3%程度という低い税率で、郡の正仓(しょうそう)に保管される、地方财源であった。律令制以前から、共同体単位で収穫された稲の一部を神にささげる初穂(はつほ)を起源としたものと考えられている。律令税制は、こうした律令制以前からの共同体を前提として课されていたが、上记のような社会の変化により、戸籍といった帐簿による管理ではなく、実际に耕作されている田に课税し(官物(かんもつ))、必要に応じて诸役を课す(临时雑役(りんじぞうやく))方式へと転换した。
土地を谁が持っているのか、そこにいかに课税するかは国家にとって重要な问题である。古代の土地支配については现在も多くの议论が重ねられており、本稿で挙げた论点もごく限られたものに过ぎない。ただ律令国家は、有力王族?豪族、さらには地方豪族の力も活用しながら、変化する社会に対応して可能な限りの支配体制を维持しようとしていたといえる。
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。