执笔者プロフィール

田渊 俊彦(たぶち としひこ)
その他 : 桜美林大学芸術文化学群ビジュアル?アーツ専修教授塾员

田渊 俊彦(たぶち としひこ)
その他 : 桜美林大学芸術文化学群ビジュアル?アーツ専修教授塾员
テレビメディアは、他メディアに比べて受容者(视聴者)の数が桁违いであるため、コンプライアンス(以下、コンプラ)遵守の缚りが厳しい。例えば「视聴者に不快感を与える」「不适切な演出で视聴者を误认させる」といったバッシングが厂狈厂などで拡散されると、レピュテーションリスク(风评被害による公司価値低下の危険性)は高まる。日本の民放テレビ局はすべて株式会社であるから、そういったことが原因で株価が暴落することを恐れるきらいがある。これらの事情が、いまテレビメディアがコンプラ问题にセンシティブになっている理由である。同时に、コンプラはテレビ局にとって责任転嫁ができる“便利な”リミッター装置でもある。テレビ局はコンプラという大义名分に乗じて「自主规制」をかけ、メディアとしての义务を放弃している。本稿では、テレビにおけるコンプラの现状を明らかにし、コンプラ社会におけるテレビメディアの在り方について提言をおこなう。
「コンプラ过剰」を风刺したような罢叠厂のドラマ『不适切にもほどがある!』が话题となり、狈笔翱法人放送批评恳谈会が选定する第61回ギャラクシー赏のテレビ部门特别赏を受赏したのは、そういったテレビ局の体たらくを谁もが嘆き、メディアのいまの姿を揶揄していることの証とも言える。昭和と现代のコンプラのギャップをテーマにしたドラマ内では、「このドラマには不适切な台词や喫烟シーンが含まれていますが、时代による言语表现や文化?风俗の変迁を描く本ドラマの特性に鑑み、86年当时の表现をあえて使用して放送します」といういわゆる「お断りテロップ」が示された。これは脚本家?宫藤官九郎氏によるコンプラに过敏になる风潮への风刺である。それは、最终话に近づくにつれ「お断りテロップ」が频繁に登场するようになることからも読み取れる。まさしくテレビ局上层部から「あのシーンはまずくないか」「あの言叶はやめたほうがいい」などといった「自己规制」や「言叶狩り」がおこなわれ、制作现场に过剰なコンプラ遵守が强要されているという现実とその状况に抵抗する制作现场の意志を表している。
コンプラが过剰になると「表现の制限」を引き起こし、作り手の创造力をそぎ落としてしまう。そして结果的に视聴者に「本当の姿」が届かないことになり、「知る権利」を损なわせてしまう恐れがある。以下に実例を挙げたい。
テレビ局勤务时代に、私が吉村昭氏の小説『破狱』をドラマ化したときのことである。无期惩役囚?佐久间が脱狱をしないように厳重な手かせや足かせをされるというくだりがあった。あまりにも长い间その状态のまま投狱されていたので、鉄のかせが皮肤とこすれてかぶれ皮肤炎になり、さらにそれが放置されてうじ虫が涌いた。そんなリアルなシーンを具现化しようと、美术が本物のうじ虫を用意した。演じる山田孝之氏は嫌がることなく足にうじ虫を乗せられ、撮影は终了した。しかし、その映像に上层部からの物言いがついた。「うじ虫の部分は削除するべきではないか?」というものだった。理由は、视聴者に不快感や嫌悪感を与えるのではないかという极めてコンプラ的な「配虑」だった。私は断固として反対し、「これは佐久间が脱狱をするきっかけとなるエピソードであるから、过酷さを忠実に表现しないと意図が伝わらない」と上层部を説得した。结果的にうじ虫の映像はカットしなくてもすむことになったが、コンプラを理由に作り手の「表现の自由」や视聴者の「知る権利」が损なわれる危険性に直面し、空恐ろしくなった。
またあるドラマの犯人が车で逃走するシーンが「シートベルトをするべきかどうか」で议论になった。「逃げる犯人がいちいちシートベルトなんかするわけがない」「リアリティに欠ける」と私は判断したが、念のため私有地で撮影することにした。すると上层部からの指示で、「撮影は法令を遵守し、私有地でおこなわれました」という兴ざめなテロップが入ることになった。
こういった场合にテレビ局の経営阵が下す判断の理由は、例外なく「念のため」である。しかし、こういった倾向を「干部が言うから」「上からの命令だから」と鵜呑みにして安易に片づけるべきではない。作り手は「1人ひとりがテレビメディアを构成する一员である」ことを自覚し、责任を持つ必要がある。では、「责任を持つ」とはどういうことなのか。
それは、常に「これでよいのか」と自问自答してゆくことである。情报は受け手によって捉え方が违う。映像を见たときの感情も种々さまざまだ。うじ虫の映像は人によっては「たまらなく気持ち悪いもの」かもしれないが、制作现场にとっては「欠かせない」こだわりの表现であり、确固たる意図があるはずだ。それをコンプラという侧面だけでカットしてしまうことは、视聴者の「リテラシー」や「想像力」を低下させるばかりでなく、现场の士気を下げ萎缩させることにつながる可能性があると指摘したい。
大切なのはコンプラとリテラシーのバランスとの线引きである。コンプラは守らなければならないが、过剰になりすぎてはならない。
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。