执笔者プロフィール

谷部 真吾(やべ しんご)
その他 : 山口大学人文学部教授塾员

谷部 真吾(やべ しんご)
その他 : 山口大学人文学部教授塾员
祭りは伝统文化か?
祭りとは、日本の伝统文化であり、大昔から世代を超えて连绵と受け継がれてきたものと、一般には考えられているのではないだろうか。だが、実际には、これまで変化を経験したことのない祭りなど、存在しないといっても过言ではない。例えば、「东京の祭り」と闻くと、多くの人は神舆を想起するのではなかろうか。确かに、现在、浅草の叁社祭や神田の神田祭に出かけると、数多くの神舆を目にすることができる。そうした神舆は大きく2つにわけられ、1つは神社が管理する宫神舆であり、もう1つは氏子町内が所有する町神舆である。これらのうち、祭りで见かける神舆のほとんどは、氏子町内から担ぎ出される町神舆である。だが、东京の祭りにおいて町神舆が出されるようになったのは、そう古いことではなく、明治40年代(1900年代后半)以降であるとされている。
神舆以前の江戸?东京の祭り
では、それ以前の东京、さらには江戸の氏子たちは、どうしていたのであろうか。人々は山车(だし)と、附祭(つけまつり)と呼ばれる仮装行列やさまざまな造物(つくりもの)を出していた。斎藤月岑(げっしん)によって1838(天保9)年に刊行された『东都歳时记』によると、江戸时代の叁社祭は隔年で3月17日?18日に行われており、18日には31町内より山车と附祭が出されたという──但し、『东都歳时记』に列挙されている山车を出した町内を数えてみると、31ではなく、30ではないかと思われる。また、江戸最大の祭りとされた赤坂にある日枝神社の山王祭と神田明神の神田祭では、前者で最大56台、后者で最大40台の山车が出た。これら2つの祭りは、天下祭とも呼ばれ、将军の上覧を受けた。
他方、山王祭?神田祭における附祭は、顺番やくじによって担当が决められ、当年に担当となった町内は、朝鲜通信使の仮装行列を出したり、源頼光らが退治した酒吞童子の首の造物や、1728(享保13)年に日本にやってきた象の造物を出したりした。こうした华やかな附祭は、江戸の人々の注目を集めたようである。だが、华やかであったからこそ、享保?寛政の改革の际には、数や规模が制限された。そうした寛政の改革期に実施されたと思われる、1791(寛政3)年の神田祭の様子として、『武江年表』の同年9月15日の条に次のような记述が见られる。
九月十五日、神田御祭礼、だしの外は太(だい)神楽、狛(こま)廻し、子供角力のみなり。此の时落书、「御祭は目出たいひれの御吸物 出し计(ばかり)にてみどころはなし」。
旧暦九月十五日は神田祭当日である。この年の祭りでは、改革の影响により附祭が规制され、见るべきものがなかったのであろう。そんな祭りは面白くない、という江戸っ子の心情がよく伝わってくる。
祭りの意义
やがて近代に入ると、祭りのありようは大きく変容する。まず、附祭がなくなり──神田祭において附祭が最后に出されたのは、1887(明治20)年とのことである──、山车も上述したように徐々に町神舆に置き换わっていった。山车が曳き回されなくなった理由について、一般には、东京の街中に电线が张りめぐらされたからだといわれるが、それは决定的な要因ではなく、むしろ财政的な问题の方が大きかったのではないかという指摘もある。いずれにせよ、明治末期以降、东京の祭りでは神舆が主役となった。それにより、祭りは衰退したのかといえば、そのようなことはない。人々は、あいかわらず、祭りを楽しんでいる。
祭りとは、歴史を重んじ、先代から受け継いだものを次世代に伝えることが、すべてではない。社会环境の変动により、それまでのありようを変えなければならないことも、まま起こりうる。そのようなとき、これまでの作法に固执し、祭りの実施を危うくするよりも、时代の要请にあわせて柔软に対処した方がよいのではないだろうか。山车を曳く、神舆を担ぐといった祭りでの行為は、决して1人で行えない。その意味からすると、祭りとは、人々の协働の上に成り立つ、すぐれて社会的な现象なのである。祭りを変化させ、その存続を図ることは、人と人とのつながりを维持していくことでもあるといえよう。
参考文献
岸川雅范『江戸の祭礼』角川选书、2020
木下直之「神田祭の近代」木下直之(他编)『鬼がゆく』平凡社、2009、76-77页
斎藤月岑(着)、金子光晴(校订)『増订武江年表 二』 平凡社东洋文库、1968
同、朝仓晴彦(校注)『东都歳时记 一』平凡社东洋文库、1970
滝口正哉『江戸の祭礼と寺社文化』同成社、2018
福原敏男『江戸最盛期の神田祭絵巻』渡辺出版、2012
同『江戸の祭礼屋台と山车絵巻』渡辺出版、2015
※所属?职名等は本誌発刊当时のものです。